林 昌二
聞き手 畔柳 昭雄
林昌二さんは、日建設計のチーフアーキテクトとして、掛川市庁舎、三愛ドリームセンター、ポーラ五反田ビル、日本IBM本社など、大規模設計事務所に属しながらも、きわめて作家性の強い作品をつくり続けてきました。日本のオフィスビルの発展において、林さんの果たした役割は計り知れません。今回は特に1966年に竣工したパレスサイドビルとアルミについてお話を伺いました。
細部まで検討し尽くした仕組みを繰り返し使う
― パレスサイドビルはサッシがスチールでルーバーがアルミですね。
材料の使い分けの問題です。サッシは、開口部の主要部材になりますので確かで安心なものをという観点からスチールでつくり、日照のカットといった補助的な役割のルーバーはアルミでつくりました。もうひとつは経済的な理由です。当時、アルミは必ずしも経済的に優位ではありませんでした。サッシメーカーに頼むと値段が高くなってしまう状況だったのです。そのためサッシは市販の鋼材を切り刻んで、それをボルトで締めてつくりました。価格も安くなっています。使いませんでしたが、当時のアルミサッシは肉厚で形状も単純。今のアルミサッシよりも断然よいものでした。
― ルーバーはアルミの板材ですか?
鋳物でつくりました。板材を折り曲げてつくったら大変です。もちろん板材でつくった事例もあると思いますし、その方が多いのかもしれません。しかし、大変なことを頑張ってやっても面白くはありません。むしろ、いかに手間を最小限にして質の高い製品を大量につくるかに興味があります。特にこれだけの規模の建物では、デザインや機能といった側面のみならず、製造、搬送、施工についても考慮する必要があります。その意味で、最初だけ手間をかければ、あとはその繰り返しで済む鋳物は魅力的に思えました。
この細部まで検討したひとつの仕組みを繰り返し使うという考え方が、ルーバーのみならずパレスサイドビルの設計のベースとなっています。
ルーバーの1ユニットは幅3.2m、奥行き1.2mで、鋳物として限界の大きさです。鋳物でつくるわけですから、断面は丹念に検討しました。特に羽の断面、下のエッジと上のエッジをどうするかはルーバーの寿命に関係がありますので、ずいぶん気を遣いました。水が切れる、つまり最後に水が離れていくところで金属は傷むのですが、金属の形状と水の切れ方、劣化に関しては研究もないようでした。幸い問題なく機能していますが、設計の際は祈る気持ちで形を決めました。大量生産を前提にしているわけですから、失敗したら全体が一挙にやられてしまうわけで、とても心配でした。
― ルーバーはその後、塗装などしていますか。昔の写真を見ますと、今よりも光沢があるように思います。
補修のための塗装はしていません。経年変化で光沢がなくなったのではないでしょうか。特にルーバーは外部に取り付けてあるものですから、塗装して後々はがれたりしたら大いに問題です。何もせずに43年間立派にもつわけですから、大したものですね。
当たり前のものを当たり前に使って、当たり前に見せる
― 樋もアルミですか。
アルミの押出材です。つるつるのパイプ状のものでは面白みがありませんので、フルーティング(溝)をつけました。
各階にある雨を受ける漏斗状のものはアルミの鋳物です。やや大げさな意匠ですけれど、形のおもしろさで決めました。後にも先にもあのような意匠はないと思いますが、雨が落ちていく仕組みがわかるようなデザインにしたかったのです。仕組みがわかったからといってどうということはないのですが、わかりやすいとトラブルに有利です。問題箇所がすぐにわかり、取り替えが容易になります。特に水の関係は隠してはいけません。建物の中に縦樋を通してひどい目にあった話を当時よく聞いていましたから、水は外から外へ流すのが原則だと考えていました
― サッシのボルトも覆われておらず、仕組みがよくわかりますね。
覆ってしまうと点検の際に手間が大変ですから、否応なしに露出型のディテールになっているわけです。この建物では歩きながらすべてチェックするという精神が重要だと思いましたので、狭いながらもバルコニーを設けています。点検もメンテナンスもしやすいバルコニーがあるビルの方が安心です。
バルコニー型のオフィスビルと、ツルツルノッペリ型のオフィスビルとでどちらが優秀かは、人によって考え方の分かれるところですが、私はなんといっても外を歩いて点検できて、手入れもできる、いざというときにはそこを足場にして工事ができることがとても大事だと考えています。おかげさまでパレスサイドビルは、とてもよく手入れがなされていて、故障がほとんどありません。
せっかく取り替えやすいようにと外に出した樋も、結局取り替えずに今日まできています
― サッシ割りについてはどのように決まっているのでしょうか。
当時供給することのできる一番大きなガラス(3×2.25m)を使いました。市販の大きさぎりぎりいっぱいを使ったのです。そうするとサッシも少なくてすみますし、非常に経済的です。妻面は別にガラスでなくともよかったのですが、違う材料にするのも嫌でガラスを用いました。ただ、東西面は日射の問題がありますから、オーニングを付けています。これもアルミですが既製品です。神鋼ノースロップ(現: 神鋼ノース)社の製品です。その既製品をはめ込んだだけです。もともとも日照をコントロールするためにつくられたものだと思いますよ。でも、ほかで使ったケースを見たことはありません。
― オーニングは既製品だと聞いて驚きました。
あの建物を設計したときには、徹底的に既製品を探しました。そうしないとコスト的にも大変になりますし、あれだけ規模が大きい建物ですから特殊なものは使わない方がよいと思ったのです。別の言い方をすれば「素人わかりのするような設計」を心掛けてやっていました。たくさんの人が関係しますから、ディテールに関しても、ちょっと考えればわかるようになっていないといけません。ですからとてもプリミティブなのです。難しいことは何もありません。当たり前のものを当たり前に使って、当たり前に見せようとしました。
― 「素人わかりのするような設計」は、かえって労力を必要とするのではないですか。
モノがどのように組み立てられていくのがよいかを考えるのは好きですからね。大変だったという記憶はまったくありません。しかし、その後は設計にこういった思考を反映しにくくなっていきます。高度なものが工場で簡単にできるようになってしまったのが原因だと思います。この時代のサッシは手づくりで、誰でもできそうな工事でした。
時代の変化を建築が伝える
― スギ板の天井などは、当時のオフィスビルとして一般的だったのでしょうか。
オフィスビルといえども要所要所は内装もきちんとやりました。特に天井は面積が広いので、工場生産品でつくると目も当てられないものになります。そのため目立つところには板材を使いました。今は防火の関係でできなくなってしまいました。やはり使う人の立場になって考えなければいけないと思います。商店街にしても、どのようなサイン計画にすれば人が集まるかを考えることがおもしろいと感じています。レンタブル比を高くすればよい、とにかく部屋をつくればよいというものではありません。
― アルミと言えば、ファサードの雨樋の上にアルミ製の鳩が据えられていますね。
新聞社は、かつて伝書鳩を使っていました。パレスサイドビルが竣工する少し前までは利用されていたのではないでしょうか。それまでの毎日新聞社社屋の屋上には鳩小屋もあり、世話をする鳩係もいました。しかし、新しい社屋に鳩小屋はいらないとのことで、鎮魂のために彫刻で鳩をつくったのです。
― リーダーズダイジェスト東京支社を壊して建てることに関しては何か思いがありましたか。
リーダーズダイジェスト東京支社は、世界的に見ても第1級の建築でした。自分の流儀とは違いますが、よい建物だと思っていましたので、壊して建て直すのは嫌でしたよ。私としては、あれだけのものを壊して建て直すのですから、恥ずかしくないものをつくらなくてはいけないと思い熱心にやっただけです。
しかし、複雑な気持ちもありました。占領軍の威光を背景に、日本の真ん中に臆面もなく建ててしまったわけですからね。その意味で、時代を象徴する建物でしたから、時代が変われば壊される運命にあったといってもよいでしょう。パレスサイドビルの竣工は、時代が確実に次のフェーズへと移ったことを示しているのです。
(設計事務所ゴンドラにて)
パレスサイドビル写真撮影:相原 功
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林 昌二(はやし しょうじ)
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1928年生まれ
1953年 東京工業大学(旧制)建築学科卒業
日建設計工務(現・日建設計)入社
1973年 同社取締役。以後、副社長、副会長、名誉顧問等を歴任。
2011年11月逝去
主な作品に、私たちの家(1955)、三愛ドリームセンター(1963)、
パレスサイドビル(1966)、ポーラ五反田ビル(1971)、日本プレス
センタービル(1976)、新宿NSビル(1982)、NEC本社ビル(1990)、
文京シビックセンター(1994)、掛川市庁舎(新)(1996)などがある。
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畔柳 昭雄(くろやなぎ あきお)
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1952年 三重県生まれ
1976年 日本大学理工学部 建築学科卒業
1981年 日本大学大学院博士課程修了
2001年~日本大学理工学部 海洋建築工学科教授