アルミハウスプロジェクト

「戦後に出現する住宅産業、その牽引者・住宅メーカー」に学ぶ

住宅産業という言葉は、通商産業省技官・内田元亨氏が1967年の中央公論に寄稿した「住宅産業 経済成長の新しい主役」で用いられ、一般化しました。

戦後間もなくの「住宅をつくる世界」

 21世紀の住宅産業は、経済産業省によると、住宅投資が毎年約20兆円、産業規模が40兆円超であり、投資約20兆円は住宅着工100万戸超(国土交通省の建築着工統計)となります。建築生産などを専門とする東京大学教授・松村秀一氏は『「住宅ができる世界」のしくみ』(98年刊行)の「はじめに」で、「『住宅ができる現実の世界』のしくみすらわからずに、つくる対象としての住宅像など論じてみたところで無力だと考えるからこその歯がゆさである。なんとかして、「住宅ができる世界」のしくみを整理して説明したい。そしてそのうえで、住宅メーカーの過去も、工務店の現在も、建築家の将来も、みんな一緒に考え、論じてみたい」と説き、住宅建設の全体像を「住宅生産気象図(日本建築センターが最初に作成する)」(図1を参照)に描いています。同書は、戸建住宅を中心に、建築家と「住宅ができる現実の世界」とを分け隔てて論じています。また、建築家・隈研吾氏の『10宅論・10種類の日本人が住む10種類の住宅』(86年刊行)も、松村氏のいう、建築家の「つくる」住宅だけでなく「できる」も含めすべて(大半)の住宅を対象としています。
 戦後のプレハブ住宅は、建築家の主導で始まりました。臨時建築制限令下の46年に、建築家・前川國男氏は、構造・小野薫氏、製作会社・山陰工業とともに、木造量産型住宅「プレモス(プレ+M:前川、O:小野、S:山陰工業)」の試作も含めた数タイプを、短工期、従来の半分の木材で安価に近代的な生活を提供する目的で開発しました。それは、メーター・モデュールの木質パネル(床、壁)造であり、炭鉱住宅など代替住宅を中心に1000棟近く供給されましたが、戦後の急激なインフレによる資材高騰で失敗に終わりました。

高度成長期とともに出現する
「住宅ができる世界」

 日本で一般的な住宅建設である、住み手が戸建住宅を建てるケースは、建築着工統計では「持家、戸建」と呼ばれ、図2のように、70年代後半の70万戸前後から半減し、07年に30万戸強になり、住宅着工戸数に占める割合は50%前後から30%弱となります。これは、住宅着工戸数のピーク時200万戸弱から100万戸への減少と、集合住宅(分譲マンション)の供給増によります。
 戦後、50年に建築基準法が施行され、「持家、戸建」が制限なく建設できるようになりました。同年、住宅金融公庫も設立されましたが、厳しい融資条件はその大衆化を阻みました。そこに、在来木造住宅を大工、工務店が建設するという従来の方法に積立型の割賦販売を併せた住宅販売手法を開発した殖産住宅相互会社が50年に設立され、その後、太平住宅、日本電建も設立されました。この3社は割賦販売御三家と呼ばれ、60年、70年代と成長し、61年に田中角栄氏が日本電建の社長に就任し、殖産住宅相互は70年代に年間3万戸を建設し、最盛期の太平住宅は工事店250〜300を傘下としました。この御三家も、50年代後半に誕生するプレハブメーカー、90年代後半に出現するパワービルダー(後述)と激しく競合し、太平住宅の03年倒産によって現在はすべて存在していません。
 その後55年に、大和ハウス工業が設立され、「ミゼットハウス」を発売しました。60年に積水ハウス産業(のちの積水ハウス)が設立、61年に松下電工・住宅事業部(のちのパナホーム)が発足(軽量鉄骨造の大手3社の誕生)、62年にミサワホームの「木質パネル接着工法」と続きました。64年には、プレハブ建築協会が当時の建設省、通商産業省の共管にて設立されます。建設省は住宅不足の解消のために安価な住宅の供給を、通商産業省は住宅の工業生産化による住宅建設の近代化、合理化を推進することが共管の目的です。冒頭に挙げた内田氏の「住宅産業主役」宣言からもわかるとおり、官による護送船団方式で住宅産業は育成されていったのです。さらに62年にはプレハブ住宅が公庫の融資対象となり、60年代半ばにはメーカーへの資金融資も始まります。76年からの4年間には低価格(当時の約半値500万円)の高性能住宅(100㎡)供給のための「ハウス55プロジェクト」を建設省、通商産業省が民間100社超の参加にて推進し、79年の新住宅開発プロジェクトなどへと続いていきます。
 その間にも、67年に小堀住研(現在のエス・バイ・エル)が工務店として初参入します。アルミ業界のアルミハウス挑戦(本誌前号にて詳述)が始まる70年代前半には、積水化学工業のユニット住宅「M1」での再参入(71年)、旭化成によるALC板普及のための「ヘーベルハウス」発売(72年)、2×4住宅の三井ホーム設立(74年)、75年に林業の住友林業が注文住宅を供給するなど、さまざまな業種業態の企業がそれぞれの目的で市場参入を果たしました。
 プレハブメーカーの成長要因は、国策に加え、従来の家づくりとは異なる、膨大な宣伝広告、展示場での展開、大量な営業マンの投入という革新的なビジネス・モデルです。「持家、戸建」において、プレハブ住宅の割合は80年まで10%弱に過ぎませんが、近年は25%超になります。その過程でプレハブメーカーは、プレハブ住宅における工場の部材生産や現場施工の削減による品質の維持、向上と現場施工の短縮という本来のメリットより、企画型住宅というプラン売り、すなわち暮らしの提案によって販売を伸ばしていきました。
 積水化学工業の「M1」は、プレハブ住宅として最大のヒット商品である積水ハウスのB型とは異なり、工場製作80%以上のユニット住宅です。開発は当時東京大学・修士課程の大野勝彦氏との協同で行われました。軽量鉄骨ラーメン構造の2.4m×5.6m×2.7m(天井高2.25m)のルームユニット(大野氏曰く「無目的な箱」)を数個重ね並べる構法です。発売当初の坪単価は、他のプレハブ住宅20万円、在来住宅16〜18万円に対して13万円強であり、5年間でおよそ17千棟を販売しました。建築史家・藤森照信氏は耐震、安価に加え、性能、機能、そして「デザインがない」という理由で、都市計画家・林泰義、建築家・富田玲子夫妻は工期の短さが車のような感覚という理由で選定、購入しています。富田氏は、軽量鉄骨のフレームを基に、10回以上の増改築を行い、現在一部をカフェとして店舗利用しています。

請負業、住宅産業から総合生活産業へ

 現在、No.1住宅メーカーである積水ハウスは、60年に積水化学工業・ハウス事業部を母体として設立され、61年にセキスイハウスA型を、翌年にB型を発売します。C型は後のセキスイハイムの先駆けとなるキャビン型ユニット住宅であり、その後アルファベット順にW型(純木造の家)まで開発します。積水ハウスは、B型を原型として、プレハブ住宅、企画型住宅、そして自由設計へと変遷します。その半世紀にわたる展開は、写真に示した通りです。
 積水ハウスの大転換は、従来からの木造注文住宅と、85年に発表した2×4住宅の「ONE´S ONE」シリーズを、95年に木造戸建住宅「シャーウッド」シリーズとして統合したことです。これは、軽量鉄骨造との2本柱を宣言したことであり、少子高齢化、環境からの制約、土地神話の崩壊という社会構造の変化に対して、請負業、住宅産業から総合生活産業へ脱皮を図ったことを意味しています。

■60~77年 A型からW型までの工業住宅期
アルファベットのネーミングからもわかるように工業化、工場生産をセールスポイントにしています。
A型:軽量溝形鋼の柱、屋根トラスにハニカムコアのアルミサンドイッチパネルの外壁、屋根、スチールサッシ
B型:リップ付き軽量溝形鋼のフレームシステム、ハードボードでポリスチレンフォームを挟み外側にアルミ板を貼った外壁パネル、カラー鋼板(後にカラーベスト)の屋根 

■78~91年 「グルニエのある家」から始まる企画型住宅期
76年のミサワホームのO型(総2階、ベランダ、玄関ホールの吹抜け、ロフト等)の成功に刺激され「フェトー」「入り母屋」「ドーマー」などと続きます。またこの時期に、旭化成のヘーベル住宅(ALC板軽量鉄骨造)に対抗して、同等の「イズ」シリーズを発売します。

■92~03年 企画型多様期
82年より、消費者指向とB型の改良のために組織としてT&C(テクノロジー&カルチャー)を立ち上げ、建築家、シンクタンク、広告代理店を参画させ、社会事象、文化を記号論的な分析を試み、その成果を「セントレージ」シリーズなど多種の商品に生かします。

■04~09年 自由設計移行期
04年に「セントレージ」シリーズをコンサルティング営業に注力しオーダーメイド感を強調する「ビー・フリー」としてまとめ、「イズ・オーダー」などへと続きます。「ビー・フリー」にも使用される「ビー(Be)」はB型のBです。

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    1961年 セキスイハウスB型(切妻平屋)

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    1978年 グルニエのある家

  • 1996年 セントレージΣ 拡大

    1996年 セントレージΣ

  • 2009年 Be ECORD「グリーンファースト」モデル 拡大

    2009年 Be ECORD「グリーンファースト」モデル

アルミハウスが供給される時代の住宅産業は?

 近年の「持家、戸建」は図3の通りであり、4軒に1軒を供給する住宅メーカーが、高利益体質を基に、消費者のニーズに応える商品、企画、例えば3階建住宅、2世帯住宅などを次々に開発、供給し、消費者にとっての「日本のよい家」基準となっています。
 残り3軒は、地域の工務店、中小規模のビルダーが安い単価で供給しています。その中に、90年後半から新しい供給スタイルの地域ビルダーが出現しました。いわゆるパワービルダーで、大手ディベロッパーの手掛けない小規模物件も含め、圧倒的に安価な分譲戸建住宅を中心として供給しています。過去にあったミニ開発業者とは異なり、あくまでハウスビルダーであり、大量発注による資材費、工期短縮(2カ月)による労務費の削減で上物の低価格も可能にしています。2000年代になり、パワービルダーは急激に成長し、前述したように、割賦販売御三家に引導を渡しました。

 住宅産業、特に住宅メーカーの変遷をとおして、2つのことが言えると思います。1つは、住宅の工場生産、工業化は掛け声、うたい文句に過ぎなかったということであり、もう1つは、住宅メーカーが商品化住宅の名の下に「建てる」ものであった住宅を「買う」ものに変質させたということです。
 それに対してアルミハウスは、工場生産、工業化を自明のものとします。積水ハウスのB型のごとく、永い年月の技術の開発、蓄積に支えられユニバーサル化するシステムを、明確なコンセプトの下構築していかなければならないと思います。さらに住宅を今一度、「買うもの」から「建てるもの」へ、さらには「受け継ぐもの」へ回帰させます。前述した『10宅論』には、かつての上流階級にとっての住宅は建てるものではなく受け継ぐものであったことが書かれていますが、アルミハウスも長寿命を背景に、親から子へ、子から孫へと受け継がれるための仕掛け、仕組みを装備しなければならないと考えます。