建築家インタビュー アルミ・素材・建築

古谷 誠章

聞き手 畔柳 昭雄

2007年日本建築学会賞を受賞した茅野市民館の設計者であり、早稲田大学教授として多くの学生を建築家として育ててきた古谷誠章さんにお話を伺いました。

宮崎浩さんに教えられたこと

― これまでの設計で特にアルミを意識されたことはありますか。

 もっとも身近なアルミは何といってもアルミサッシですが、大学院を出たばかりの時にこのアルミサッシに苦しめられました。恩師である穂積信夫先生のお手伝いで早稲田大学本庄高等学院の設計をしたのですが、よせばいいのにさまざまな姿かたちの窓をデザインしたのです。そのため、サッシ屋さんと幾晩も夜中過ぎまで打ち合わせをすることになってしまいました。サッシ図が製本して30cmもの厚さになる分量です。はじめて実施設計から監理まで担当したこの現場で、アルミサッシの性質、面白い面や不自由な点、いろいろなことをひと通り学んだような気がします。
 ただ、この経験をもってしても、アルミは工業品、既製品というイメージがありましたから、デザイナーとしては不自由な素材であるという印象を強くもっていたのです。しかし、それがそうでもないことを教えてくれた人がいるのです。槇文彦さんの事務所にいらして、いまも積極的にアルミ製品の開発まで取り組んでいる宮崎浩さんです。
 宮崎さんがまだ槇さんのところにいらした時に電通大阪支社を担当されたのですが、その見学に誘われた時のことのです。柱と梁、そして腰壁に当たる部分がアルミになっているのですが、宮崎さんは「これらが凡庸にならないようにアルミの色を変えた」とおっしゃいました。しかし、パッと見ただけではわかりません。でも、細い柱と柱の間、梁と腰壁が合わさったところに貼られている2枚のアルミパネルを見ると、なるほど色が違うのです。目の錯覚か、製品の色むらかなと思うくらい微妙な違いですが、それらはきちんと色分けされているのです。宮崎さんにこれどうしたのですかと聞くと、宮崎さんは得意気に、陽極酸化皮膜の厚さを変えたんだというのです。普通なら陽極酸化皮膜の厚さは数ミクロンですが、それを35ミクロンにあげたというのです。ですから、屈折率が変わるのでしょうね。これはかなりの厚さで、これ以上厚くすると割れがでてしまうぎりぎりの厚さだというのです。この厚さにして、やっときれいないぶし銀の色が出たと、宮崎さんはうれしそうに話されていました。宮崎さんが凝りに凝る人であることは知っていたのですが、それでもなお感服した記憶があります。しかも、スカイアルミニウムの特定のものを使わないとこの色は出ないんだよと宮崎さんはいわれました。それが社会人になりたての僕にはとても印象的なことで、とてもプロっぽく感じられたのです。たった3歳しか違わないのに、すごい人だなと思いました。それがアルミに対して強烈な印象を抱いた最初です。

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    電通大阪支社(1983年、設計:槇総合計画事務所)※

アルミを自分なりに使ってみる

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アンパンマンミュージアム(1996年)※

 カタログから選ぶものだと盲目的に思っていたアルミですが、宮崎さんのおかげで工夫のしようがあることがわかり、早速まねをしてみました。それはやはり穂積先生のお手伝いで設計した、本庄に建つ大学の保存図書館です。
 図書館はいわば中に本を封じ込めるお蔵のようなものですので外断熱とし、屋根もコンクリートのスラブに断熱処理をして金属板で葺くという方法を採用しました。その金属板を何とかアルミでやれないだろうかと思ったのです。しかも、宮崎さんが電通大阪支社で試みたいぶし銀で。結果としては思いどおりの屋根ができたのですが、そこに至るまでには紆余曲折がありました。電通大阪支社のアルミはカーテンウォール部分ですのである程度肉厚もあります。しかし、ここは屋根材ですから厚さ5.0mm程度のアルミ板に曲げ加工を施すわけです。しかし、皮膜をかけてから折り曲げると皮膜が割れてしまいますのでパネルは1枚1枚成型してから皮膜することになりました。アルマイト槽の大きさも考慮しなくてはいけませんでしたし、板金用のアルミと押出用のアルミでは合金の成分が異なるので、思うような色にはなかなかなりません。そういった状況でしたから、屋根屋さんも苦労したと思います。このようにアルミに関しては、まず難しさ、不自由さも味わいましたが、やはり愛着のある材料だと思っていて、部分的にはいろいろ使ってきました。
 例えばアンパンマンミュージアムの階段の手摺りがそうです。ここでは厚さ10mmの無垢板を用いています。普通ならフラットバーを立てるといった方法で自立させるのでしょうが、骨がなく自立できるようにしたかったので、これだけの厚さとしました。表面の仕上げも工夫したかったので、バイブレーションをかけています。無垢だからこそできた表情です。四角い穴を開けたのは、その向こうに人の動きを見せたかったからでもありますが、断面を見せることで無垢材であることを伝えたかったからでもあります。
 早稲田大学の、今井兼次先生が設計した図書館を改築してできた會津八一記念博物館にもアルミの無垢板を使っています。改築ですので、積極的にデザインしたのは展示ケースくらいですが、この側面が厚さ5mmのアルミ無垢板です。やはりアンパンマンミュージアム同様、表面にバイブレーションをかけています。この展示ケースは、下の部分を引き出して展示物を取り替えるため軽量化も重要課題でしたが、その点でもアルミは適していました。

オリジナルの型、オリジナルの製品

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    茅野市民館(2005年)※

 茅野市民館は、オリジナルの型を起こす最初の仕事となりました。駅に面したガラスのファサードのカーテンウォールに用いた型材がそれです。当初はオリジナルの型など思いもよりませんでしたから、カタログの中の製品を使いながらどうやって、それを意匠的に見せようかと考えていました。メーカーの担当者との打ち合わせで、カタログを見ながら、本当はこうしたくてどうにか工夫できないかなどという話をしましたら、「それじゃあ型を起こしましょう、そのほうが楽です」とあっけらかんといわれて、そこで初めて、ある程度ロットがまとまればこういうこともできるんだとわかったわけです。そのときやっと夢がかなったという思いがありました。
 しかし、このたびさらに高い夢がかないました。アルミの製品開発ができたのです。風が吹いたときに自然に開閉する窓がそれで、三協立山のスウィンドウという製品にヒントを得てさらに小型化しました。厳密にいえば中に人がいて室温があがれば、それによっても下の吸気口と上の排気口が開くようになっています。2009年4月に開校する高崎市立桜山小学校のために開発しました。風で動くアルミの窓を開発した意図は、外壁部分もアルミパネル、窓の部分も動くけれどもアルミパネル、つまり壁と窓の区別のないものをつくりたかったことにあります。すべてがアルミパネルだけれども風が吹くとある部分だけは動くというものです。

― なぜ壁と窓の区別のないものをつくろうと思ったのですか。

 学生の卒業論文として「窓」を取り上げ、共同で研究を進めていたことが発端です。そもそも西欧の組積造の建築に見られる、壁に穴を開けてできた窓と、日本の柱梁の木造建築における窓ではずいぶん違いませんか。語源をはじめ、さまざまな観点から調べてみると、西欧の窓が穴を指すのに対して、日本の「間戸」はそこに建て込まれているもの、つまり遮るものを窓と呼ぶようなのです。ですから日本では、必要に応じてさまざまな遮断のバリエーションが生まれました。障子、板戸、格子戸、衝立、屏風、これらはみんな窓なのです。そして、さらに遮断という機能をつきつめていくと、壁も結局は窓なのではないかというパラドックスめいた結論に至ってしまったわけです。それ以来「窓でもあり壁でもあるもの」という命題がいつも頭のどこかにありました。

スカルパとアルミ

― 以前、カルロ・スカルパに関する講演会をされたときに、スカルパは古びていくこと、朽ちていくということを念頭において、ブリオンの墓地で打放しコンクリートを使ったのではないかとお話しされていました。かたやアルミは朽ちない材料です。それを使うということは、建築に時間という考え方を持ち込まないということにもなりそうですね。

 はじめにお断りしておかなければいけないのは、スカルパがいつも古びる材料を用いていたわけではないということです。ブリオンの墓地に限っては、風化しやすいコンクリートを用い、しかも凹凸をつけ、断面も薄くしています。普通の建築家であればいざ知らず、あれだけ素材に造詣の深いスカルパが、そういう手法をとっているということには何か意味があると考えないわけにはいきません。スカルパは、幅3mの廊下であればコンクリートでよいけれども、1mであればベネツィアンスタッコなど光沢のある仕上げにし、30cmしかないのであれば金でつくらなくてはいけないといっています。つまりある空間のスケールや用途に応じて材料を選択しなくてはいけないという考え方がスカルパにはあるのです。そのスカルパがブリオンの墓地で打放しコンクリートを採用したのは、やはりお墓であるということが大きいと思います。死後何年も経って、夫妻のことを知る人が少なくなっていったときに、お墓だけが往時のままに存在していてよいのか、風化するくらいでちょうどよいと思ったのではないでしょうか。スカルパは、時に建築の永続性を求めていました。その際はよく銅や真ちゅうを使っていましたが、アルミに対する知識があればアルミも使ったかもしれません。また、手では触れないけれど、目で触っているといったような感じで素材を決めていた建築家ですので、アルミのもつある種の柔らかさには大いに興味をそそられたのではないかと思います。

(NASCAにて)

※写真撮影新建築写真部
その他撮影:西川公朗写真事務所

古谷 誠章

古谷 誠章(ふるや のぶあき)

1955年 東京都生まれ
1978年 早稲田大学理工学部建築学科卒業
1980年 早稲田大学大学院博士前期課程修了
1983年 同大学院穂積研究室助手
1986年 早稲田大学理工学部建築学科助手、近畿大学工学部講師、文化庁芸術家在外研修員としてスイスの建築家マリオ・ボッタ事務所に在籍
1990年 近畿大学工学部助教授
1994年 早稲田大学理工学部助教授、八木佐千子と共同してスタジオナスカ(現NASCA)を設立
1997年 早稲田大学理工学部教授
2007年 茅野市民館で日本建築学会賞作品賞受賞
畔柳 昭雄

畔柳 昭雄(くろやなぎ あきお)

1952年 三重県生まれ
1976年 日本大学理工学部 建築学科卒業
1981年 日本大学大学院博士課程修了
2001年~日本大学理工学部 海洋建築工学科教授