建築家インタビュー アルミ・素材・建築

原 広司

聞き手 畔柳 昭雄

JR京都駅や札幌ドームといった作品や独自の建築論を通して、常に時代に影響を与え続けてきた建築家の原広司さんにお話しを伺いました。

アルミニウムと建築の近代化

― 前号で内田祥哉先生から、パウル・ワイドリンガーが書いた『アルミニウムの建築』(1961年刊行)を原広司先生といっしょに訳したというお話しを伺いました。

 内田先生が大学院のゼミの教材として取り上げたのです。翻訳を出すことを前提にみんなで読み始めました。

― 内田先生はなぜこの本を取り上げたのでしょう。

 内田先生は、建築の近代化を技術や材料の性能という側面から考えようとされていましたから、新しく建築の分野に入ってきたアルミについても基礎的なデータを収集したいというお気持ちがあったのではないかと思います。内田先生はその後、池辺陽先生とともにアルミサッシなど、この時期に現れてくる建築材料の仕様や基準を行政といっしょになってつくりあげていきます。
 大学院の時には、日本軽金属から依頼されて翻訳のアルバイトもしていました。日本軽金属に届いた海外の新しい技術情報を訳す仕事で、生活費はそれで稼いでいたというくらいたくさん訳しました。『アルミニウムの建築』の時もそうでしたが、アルミニウムは新しい材料でしたので、訳そうにも日本語に該当する言葉がないものが多くありました。マリオンですとかトランザムですとか、今では当たり前に使われている用語も当時はなかったのです。カーテンウォールの技術がまだはいってきたばかりですからね。その用語をひとつひとつ確定するような作業から始まって、陽極酸化ですとか新しい塗料など、いろいろな技術に接することができました。これは新しい情報を日本語で蓄積していくためのもので、出版を前提にしたものではなかったと思います。

― 原先生は学部のときから内田先生の研究室ですか。

 学部では丹下健三先生の研究室でした。丹下先生の活躍する姿を見て建築を志したので、当然、丹下研究室に入りました。しかし、大学院に進学する時にちょうど都市工学科が新設されて、丹下先生はそちらに異動されてしまったのです。僕は建築設計をやりたかったので建築学科に残り、内田先生の門を叩きました。その後、東洋大学に赴任し、1969年に東京大学生産技術研究所の池辺研究室の助教授として東大に戻りました。内田先生と池辺先生の薫陶を受けることで、新しい技術が建築に浸透していく過程を間近で見ることができました。ALCが入ってきたときも、旭硝子と共同で住宅をつくりました。もはや残っていませんが、今僕らが事務所を構える鉢山町につくったことを記憶しています。

― 建築の近代化を促す素材としてアルミに注目されていたのですね。

 昭和30年代半ばには、木製サッシはもちろん、スチールサッシやカーテンウォールをアルミに変えなくてはいけないんだという社会的な機運があったように思います。サッシが、アルミ、それも押出材でできるということが革命的だったのです。建物の気密性は、これによって飛躍的に向上しました。丹下先生の作品はほとんどスチールサッシでしたから、錆で開かなくなるなどの問題も多くあったと思います。
 しかし、現在は逆にスチールでサッシをつくることが増えています。アルミサッシは普及しすぎたためでしょうか、自由度がなくなり、できるであろうことが簡単にはできない状況になってしまいました。小さな開口部であればもっとスレンダーにできるはずなのに、既成のサッシを使うとかなりごついものになってしまうのです。企業の成長とともにフレキシビリティがなくなってきたということでしょうか。内田先生は、技術は常に社会に開かれ多様性を支えるとおっしゃっていますが、逆に技術が進歩したことでプレファブリケーションの業界は閉じた方向に向かってしまっているように感じます。とはいっても、アルミサッシは日本の近代化のシンボルであることに間違いはありません。

なぜ外壁にアルミパネルを使うのか

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新梅田シティ・梅田スカイビル(1993)※

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ヤマトインターナショナル(1987)※

― 原先生がアルミパネルを外壁に用いるようになるのはいつ頃ですか。

 田崎美術館(1986年)やヤマトインターナショナル(1986年)の時からです。それまではどちらかというと、外界がない、立面がないような建築をつくっていました。しかし、この時期から「エレベーションは都市の中でいつも見られている。その時、どうしたらよいのか」ということを考え始め、結果的にアルミパネルを使うことになりました。
 ヤマトインターナショナルの時には不二サッシさんに依頼して本格的にアルミパネルをつくりました。アルミパネルの一番のよさは、はかなさみたいなものだと思うのです。強くなく、ほわっと白く輝く柔らかさはアルミならではの質感です。しかし、ひとつ間違うとむら出てしまいます。取り付けてしまってからではどうにもなりませんので、パネルを取り付ける前に確認するのですが、そうすると何枚かに1枚は必ずむらがあるものが発見され、そのたびにやり直してもらいました。最近はフッ素樹脂塗装が出てきてスチールパネルの質も断然向上しますが、アルミパネルでなくてはダメだといい続けてきました。それは、このヤマトインターナショナルのアルミパネルがあまりにも素晴らしかったからにほかなりません。

― ヤマトインターナショナルの特異な形態は、アルミがあってのものですか。

 そうです。ヤマトインターナショナル以外でも、宮城県図書館(1998年)ほかアルミパネルをイメージして設計した作品は数多くあります。梅田スカイビル(1993年)も実際はプレキャストコンクリートとの貼りわけになっていますが、当初はすべてアルミパネルで考えていました。
 僕は、反射性住居という住宅のシリーズをつくっていたくらい、現代建築には、反射するということが重要であると思っています。逆にいえば、いつも同じように見える建物というのは重要でないと思っているのです。要するに西欧的な「普遍的絶対」の対極にある、訪れるたびに違う、あるいは瞬間瞬間で異なって見えるといったことが大切だと思うのです。このことを可能にする素材はガラスを除くとアルミ以外に考えられません。アルミは空の色などまわりの環境を確実に映し出します。しかも、明暗や色彩を増幅するので、ちょっとした差異を如実に表すのです。その意味でアルミは自然に対してコレスポンシヴな素材、応答する素材といってよいのではないでしょうか。
 特にヤマトインターナショナルでは、局所的に発生するであろう反射がレイヤーごとに微妙に異なり、それらが重なり合う中でまた別の表情をつくり出すであろうことが予想されましたので、何が何でもアルミという思いでした。

原風景としての光

― 一貫して光の問題を扱っていらっしゃいますが、体験とか原風景といったものがあるのですか。

 僕の体験で強烈に残っているのは、空襲の際の光景です。空襲の光景といっても、街が火の海になっているといった光景ではありません。照明弾によって夜の街が人工的に写し出される光景です。
 当時は川崎にいたのですが、毎晩空襲がありました。爆撃機が焼夷弾を落としていくのですが、焼夷弾を落とす前に照明弾を落として街の様子を探り、爆撃を予定している場所かそうでないかを調べるわけです。ですから、照明弾が落とされたからといって必ず焼夷弾が落ちてくるわけではありません。空襲のプログラムに載っていなかったら大丈夫なのです。しかし、その明るさたるやすごい。こんなにきれいなものはあるだろうかというくらいきれいです。月夜に近いのですが、月よりもはるかに明るく照らすわけですから、とてつもない光景が現れるのです。防空壕の中にいて隙間から光が差し込んでくる感じは、後の有孔体の理論とつながっているといえます。今の渋谷の夜間などはこれより明るいのかもしれませんが、当時は空襲というとみんな電気を消しましたから、より強烈に感じたのかもしれません。
 それともうひとつ、高校までを過ごした長野県の伊那谷で見続けていた光景も原風景としてあると思います。反射という意味では、ここでの体験の方が直接的な要因といえるでしょう。
 伊那谷は天竜川に沿った盆地で、東に南アルプス、西に中央アルプスがそびえています。みなさん、朝日といえば東を見ると思いますが、ここでは西を見るのです。中央アルプスの斜面に反射する朝日です。同様に、夕方は南アルプスの山々に反射する夕日を見るのです。特に冬場は、雪で真っ白になった山の斜面に太陽の光が反射するので、金とも赤とも紫ともつかない微妙な色合いとなり、それが刻々と変化していきます。それは筆舌に尽くしがたいというのでしょうか、本当にきれいなのです。すごいといってもよい。僕にとって光はこのようなイメージなのです。ですから、光は、それを受けるところ、反射するところが大事なのです。そのために自分にとっては外壁の素材がとても重要なのです。

― 原先生の言説には、いつもわくわくさせられます。現在、何か構想されていることがありましたら教えてください。

 『空間の文法』という本を書こうと思っています。僕は大学でふたつのことを研究していました。ひとつは集落、もうひとつは数学的な計画理論です。僕も基本的に内田先生のビルディングエレメント論と同じで、モノをとおして建築の近代化を考えているのですが、実際に住む人にとっては温度や湿度、音といった環境的なファクターが重要です。そこで、モノを扱いながらもそれを媒介として空間を現象として語れるようにしたかったのです。この考え方をベースに博士論文を書いたのですが、この時はまったくの失敗でした。いろいろなことを調べ、データも集めたのですが、どうも論理が組みあがりません。その後も取り組んでいますが、今日まできてしまいました。今はこれを完成させるため猛烈に数学の勉強をしています。非ユークリッド的な世界のそのさらに向こう側を見ようとするならば、数学的な基礎力が欠かせないからです。技術として数学が理解できていないと、合理的な表現もできません。「これを書き終えるまでは死ねない」とまわりには公言しています。

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    宮城県図書館(1998)※

※印写真撮影:新建築写真部 その他撮影:鈴木研一写真事務所
(渋谷区鉢山町のアトリエにて)

原 広司

原 広司(はら ひろし)

1936年 神奈川県生まれ
1959年 東京大学工学部建築学科卒業
1964年 同大学数物系大学院建築学専攻博士課程修了、東洋大学工学部建築学科助教授
1969年 東京大学生産技術研究所助教授 
1982年 同大学生産技術研究所教授
1997年 同大学名誉教授
1970年より設計活動はアトリエ・ファイ建築研究所と共同
畔柳 昭雄

畔柳 昭雄(くろやなぎ あきお)

1952年 三重県生まれ
1976年 日本大学理工学部 建築学科卒業
1981年 日本大学大学院博士課程修了
2001年~日本大学理工学部 海洋建築工学科教授